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しあわせについて思う
一日中を病院のベッドで点滴を受け続け
ほとんど目を開けることもなくなり 会話も成立しにくくなってきた今の母・・・
そんな母を見ていると 過剰なセンチメンタルに陥る自分がいる
しかし ここ何日かのうちに 2度3度と母がボソッとつぶやいた言葉は
「お赤飯炊いたから・・・」と そして「今ご飯ができる・・・」だった
もはや現実と空想との境が無くなってきている
でも ふと 思い直している
母は いま 幸せなのかも知れない と

認知症が現れ ご飯を炊くことさえできなくなってから もう10年以上も経つだろうか
そのころ帰省する度に 母は急いで台所へと立ち 息子にご飯を振る舞おうとする
味噌汁を作ってくれようとする
しかし もはやその段取りどころか ナベ釜も 具材もどこにあるかさえわからぬまま
台所に呆然と立ちつくしていた
それが 母にとってどれほどに切ない苦しみだったか 推しはかるすべもない・・・

しかし今 母は自分の中でそれを取りもどしている
見舞いに行った息子に 自慢の赤飯を持たせようとしてくれているのだ
10年以上も叶わなかったその想いを もしも母が今
空想の中で成し遂げることができているのなら
母にとってそれは どんなに幸せなことだろう・・・

息子のぼくには いまの母の姿はつらい 正直言ってとても苦しい・・・
何もしてあげられないことの無力感に押しつぶされそうだ
だけれど もしも母が 自分の中で そんなふうにしあわせを感じているのだとしたら
何をつらく思う必要があるだろう
いっしょにしあわせに浸っていれば それでいい
そう いっしょにしあわせに寄り添っていれば それでいい
さあ 母の自慢の赤飯が添えられて 今夜の晩酌だ・・・


2014年 11月05日 宮沢勝之